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坂本光太
「あいちトリエンナーレ2019『表現の不自由展・その後』」は、行政の検閲、一部市民のハラスメントと脅迫によって中止に追い込まれました。私は一人の市民として、そして音楽家としてこれに抗議します。河村たかし名古屋市長が「平和の碑(平和の少女像)」の展示を「日本国民の心を踏みにじる行為」と評したことからも、この展示を中止に追いやった背景には、従軍慰安婦を忘却しようとする、右派政治家と一部市民の暴力的な思想があったことは明白です。その思想がついに、現実に、露骨に、表現の自由を脅かしています。このような右派的な政治の潮流は、やがて日韓の自由な文化的交流をも断絶させていくでしょう。私はそんな未来を望みません。
私は以下2つのことを宣言します。
1. 私は、韓国人を含む様々な人々と共同して作品を作り、発表し続けます。
2. 音楽には、かつてあった忘れがたい出来事を記憶する力があります、過去に起きたことを現在に喚起する力があります。社会・暴力・戦争によって搾取され、虐げられた人々の声を残そうとする・拾い上げようとする音楽作品を、私はこれからも上演し続けます。
‘아이치 트리엔날레2019’ [표현의 부자유・그 후]는, 국가행정의 검열, 일부 시민의 폭력과 협박에 의해 중지되었습니다. 저는 한사람의 시민으로서 그리고 음악가로서 이것에 대해 항의합니다. 카와무라 타카시 나고야 시장의 ‘평화의 소녀상’ 전시에 대해 “일본 국민의 마음을 짓밟는 행위”라고 평가한 것을 보아도, 이번 전시중지의 배경에는 종군위안부를 망각하려고 하는 우익정치가와 일부 시민의 폭력적인 사상이 있음은 명백한 사실입니다. 이러한 사상이, 마침내 현실적으로 그리고 노골적으로 표현의 자유를 위협하고 있습니다. 그러한 우익적 정치의 조류는 결국 한일의 자유로운 문화적 교류를 단절하게 만들고 말 것입니다. 저는 그러한 미래를 바라지 않습니다.
저는 이하의 두 가지 내용을 선언합니다.
1, 저는 한국인을 포함한 여러 나라의 사람들과 함께 작품 제작과 발표활동을 이어나가겠습니다.
2, 음악에는 과거의 잊히기 쉬운 사실들을 기억해내는 힘이 있습니다. 과거에 일어난 일을 현재로 환기할 수 있는 힘이 있습니다. 사회, 폭력, 전쟁에 의해 착취되고, 학대당한 사람들의 목소리를 남기려고 노력하는 음악작품을 저는 앞으로도 연주해 나갈 것입니다.
2019년 8월 10일
사카모토 코우타(튜바 연주자)
金ヨハン
[표현의 부자유・그 후] 의 평화의 소녀상 전시 중지가 의미하는 것
2019년 일본 아이치현에서 개최된 ‘아이치 트리엔날레 2019’에서, 김서경, 김은성님의 작품인 평화의 소녀상을 전시했던 [표현의 부자유・그 후]는, 정체모를 인물의 테러 협박과 정치가들의 개입에 의해서 3일 만에 중지되었습니다. 그리고, 이 사건은 소위 일본과 한국의 무역전쟁이라는 맥락 안에서 더욱 큰 반향을 일으키기 시작해, 양국의 소셜미디어와 매스미디어 속에서 상대 국가에 대해 반(反)과 혐(嫌)으로 정리되는 감정들을 만들어내는 이미지들을 다시 재생산하기 시작했습니다.
하지만 무엇보다도, 심각하게 느끼는 것은 ‘아이치 트리엔날레 2019’에 참가했던 예술가들이 전시 중지에 대해서, 표현의 자유에 대한 공격이라 판단하고 작품 전시 중지 요청을 했다는 점입니다. (참가 예술가의 보이콧에 대한 구체적인 성명의 출처:https://conversations.e-flux.com/t/in-defense-of-freedom-of-expression-at-the-aichi-triennale/9313) 그리고, 그 중지요청에는 검열 된 예술가들과 그렇지 않은 예술가들의 연대의식 속에서, 보이콧 선언이 이루어지고 있다는 것을 확인할 수 있습니다.
한일 음악가 유지 일동의 멤버인 저와 제 동료들도, 이번 사건으로 일본 정부, 익명의 협박, 테러 보복에 의한 표현의 자유에 대한 공격에 분노합니다. 더불어, 그러한 위험 속에서 방문객의 안전을 보장하기 위해 어떠한 예방책을 간구하지 않고 작품 전시를 지지하기는커녕, 안전성을 이유로 전시중지를 선언한 주최측 행동에 대해서도 긍정할 수 없습니다. 이러한 사실들은, 예술가들에게 하여금 앞으로 일본에서 예술작품을 발표하는 것 자체에 불안감과 회의감을 안길 수 있기 때문입니다. 그리고 한 사람의 한국인으로서, 이러한 내용이 평화의 소녀상을 둘러싸고 일어 난 일이기에, 이번 일을 통해 한국과 일본의 예술가들이 서로의 나라에서 활동하는 것을 주저하게 되지 않을까 우려하는 바입니다.
저 그리고 우리는, 앞으로도 일본에서 표현의 자유가 보장되기를 바랍니다. 그래서 일본에서 평화의 소녀상과 같이 일본 사회 안에 지속적으로 억압된 불편한 진실인 전쟁과 여성폭력의 문제를 폭로하고, 그러한 예술작품을 전시하는 전시회가 더 많이 이루어지길 바랍니다. 예술이야 말로 그 나라, 그 사회의 불편한 모습들을 드러내는 수행성(performativity)을 가지고 있으며, 그러한 전시를 지지하는 것 또한 우리들의 윤리적인 의무입니다.
그러니, 한국의 많은 예술가 분들도, 이러한 상황 속에서도 예술가들과 연대하고 일본 내에서 표현의 자유를 지켜 나가려고 목소리를 내는 일본 예술가들을 기억해 주십시오. 그리고 지지해 주십시오. 그것을 위해서, 한일 음악가 유지 일동은 앞으로도 한국과 일본의 예술가들의 연대를 위해 작품 활동과 공동작업을 이어나가겠습니다.
「表現の不自由・その後」平和の少女像の展示中止が意味すること
2019年日本愛知県で開催された「あいちトリエンナーレ2019」において、キム・ソギョン氏とキム・ウンソン氏の作品である平和の少女像が展示された「表現の不自由展・その後」は、匿名の人物によるテロ脅迫や政治家の介入によって、たった3日で中止されました。そして、この事件はいわゆる日本と韓国の貿易戦争というコンテキストの中で、大きな反響を起こし、両国のソーシャル・メディアやマス・メディアの中で、相手の国家に対する反と嫌で収まるような感情を作り出すイメージを再生産しています。
しかし、今回の事件で何より問題と考えるのは「あいちトリエンナーレ2019」に参加した芸術家たちが展示中止について、表現の自由への攻撃だと判断し、自分の作品展示の中止を要請したという動きです。(参加芸術家たちのボイコットに対する具体的な声明文はこちら:https://conversations.e-flux.com/t/in-defense-of-freedom-of-expression-at-the-aichi-triennale/9313)そして、作品展示の中止の要請には、検閲を受けた作品の芸術家たちと、そうではない芸術家たちの連帯意識の中で行われていることを確認することができます。
日韓の音楽家有志一同として私も、この事件において日本政府と政治家や匿名の人物によるテロ脅迫による表現の自由へ攻撃に抗議します。更に、そのような危険な状態の中で、観覧客の安全を守るための方法や解決策を探しつつ、作品展示の継続を支持するどころか、安全性を理由に展示中止を宣言した主催側の判断も肯定できません。このような事実は、芸術家に、これから日本で作品を発表すること自体に不安や懐疑を抱かせることになるからです。そして一人の韓国人としても、このことが平和の少女像を巡って起きたことでもあり、この事件をきっかけとなって日本と韓国の芸術家たちが互いの国で作品活動することに躊躇してしまうのではないか心配でなりません。
私、そして私たちは、これからも日本で表現の自由が保証されることを願います。それで、例えば、日本で平和の少女像の発表することのような、日本社会の中で未だに抑圧されている戦争と女性へ暴力問題を暴露する芸術作品がより多く展示されることを願います。芸術こそ、その国とその社会の中に潜んでいる不便な事実を現す遂行性(performativity)を持ち、その活動を支持することもまた、私たち芸術家の倫理的義務であります。
したがって韓国の芸術家の方も、このような状況の中で芸術家たちと連帯し、日本の中で表現の自由を守ろうと声をあげている日本の芸術家たちを覚えてください。そして支持してください。そのために、日韓の音楽家有志一同はこれからも、韓国と日本の芸術家同士の連帯のために、作品活動と共同作業を続けていきたいと思います。
横山カイン勝巳
「耕すこと」をやめない - 愛知トリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止について
耕作。土を耕すこと。土を耕すと、土は空気を含み、多様な微生物が繁殖して養分が豊かになります。土を耕すと、土の中では劇的な環境変化が起こります。土が攪拌されることでそれまで安定していた生態系が一度破壊されますが、新たに作物の生育に適した生態系となって再生します。耕作をしないと、土は痩せて固まり、作物は根も張れず、育たなくなります。収穫は得られず、人の身体は飢えます。
耕作(Cultivate)は文化(Culture)の語源。昔の人は、どちらも人間の命を支える両輪である、という真理を理解していました。耕作は人の身体を生かし、文化は人の心を養います。聖書の有名な言葉、「人はパンのみにて生きるにあらず」とは基本的にそのことです。耕作によって土が空気を含むように、文化によって人間の心は開かれ、社会も風通しがよくなり、寛容になります。耕作によって土中の多様な微生物が繁殖し、養分が豊かになるように、文化によって人間の心は多様な価値観を育み、社会も多面的な発展を遂げます。耕作が一度は土の生態系に破壊的な変化をもたらすように、文化も硬直化した人の心や社会の価値体系に破壊的な変化をもたらします。文化の中で、その破壊と創造を担う領域が「芸術」です。
芸術は、人間の心や感性を一旦傷つけた後、全く新たな命として再生します。芸術はそのようにして、人間の精神を変革します。それはまず個人に起こり、やがて社会にも広がる変革です。
そのことを示す言葉を多くの人が語ります。
「アートとは、元に戻れなくすること。価値観が変わるほどの、元に戻れなくなるほどの、深い傷をつけること」(宮台真司)
「命の、内臓の、野生の、そして経験そのもののように規定不可能な - そのような音楽は可能か?そのような音楽を聴く体験は、極めて稀であった。しかし、その音楽体験は、私の命を変えた。そこに向かって歩みを進めることは、実際、難しい均衡を図る行為:外科手術のメスを手に握って神経を集中する人が、分析的な明晰さや正確さを働かせながら、あたかも皮膚がない人間のように極めて過敏な感覚を必要とするように」(ハヤ・チェルノヴィン)
日常慣れ親しんだものが全く異なる異様なものに見えるように提示するブレヒトの異化効果という考え方も、日常的な「安心感」に傷をつけることで実現されます。
このように芸術は、「傷」体験の様々な不快さをも媒介して、その不快さを超えた、新たな、より大きな世界を受け取ることを目指すものです。このことは、真に芸術を愛し、体験した者同士が、国籍・人種・思想信条を超えて、暗黙のうちに共有する極めて基本的なことです。
活きた文化芸術がなければ新たな創造性は育たず、社会は活力を失い、枯死します。まずこれらの点について、強く念を押しておきたいと思います。
さて、今回問題となった愛知トリエンナーレの企画「表現の不自由展・その後」ですが、これは過去に検閲された作品を再帰的に検証し議論することが目的の企画で、作品の展示そのものを直接の目的としているわけではありません。予算規模は、愛知トリエンナーレの予算全体のうち0.5%以下と部分的なもの。
その企画の展示作品と、公的助成に対して、激烈な批判が起こりました。批判したのは、所謂保守系と呼ばれる有名人や市民、複数の政治家。脅迫やテロの予告を含む、作品への抗議と企画の中止を求める要求が事務局に殺到し、企画は3日で中止に追い込まれました。
展示作品に対する主な批判としては、「心が傷つけられた」、「日本への侮辱だ」、「(従って)そのような企画は中止すべきだ」といった声が多かったようです。
しかし、そもそも芸術は、傷を媒介に人の感性を活性化する営み。傷を理由に企画を中止することになれば、他のあらゆる芸術表現の場も恣意的に閉ざされうるリスクに晒されます。従ってそれは、個別の作品に対する批判や議論の範疇に収められるべき話であり、企画そのものを中止させる理由としては論外です。
また日本の象徴を「侮辱」するような表現というのであれば、三島由紀夫の「金閣寺」なども、日本文化を代表する建造物に男が放火し、炎上している様子を眺めながら、「生きよう、と私は思った。」という肯定的な言葉を語って全編を締めくくるわけです。今回企画中止を求めている人達から、日本的なものの破壊に賛意を示している、という批判が起こってもよさそうなものですが、そういった声は聞かれません。この一貫性のなさは、批判自体が、単に権威主義的な情動に根差したものであることを示します。
またこの企画に対する公的助成についても、金額規模などを無視した、非論理的な批判が展開されました。
よくあるこの極めて俗物的な発想の背景には、世界中で繰り返されてきた「ヘイトと新自由主義の緊縮思想を結合させ、民衆の友敵図式を煽り、支配層とそのシンパがより権威をふるえる環境を強化する常套的キャンペーン」という図式が垣間見えます。ヤクザが手当たり次第に因縁をつけ、人々を脅して黙らせるのと同じ構図ですが、それを公に展開するには何かしらの大義名分が必要となります。そこで「限られた資源の恩恵を不当に受けている敵」の存在をもっともらしく演出するため、社会的弱者・マイノリティなどに対してデマゴーグによる「後ろ指差し」が煽られるのが通常です。これまでも、給付金受給者、LGBT、女性、外国人、在日外国人、障がい者、原発事故などの被災者、特定の民族、沖縄などの地方、一般公務員、非愛国的とされた人々など、同じパターンでやり玉にあがったケースは枚挙にいとまがありません。そして今回は、芸術がその本来の意図をねじ曲げられて、ダシにされた、とみるべきです。
このように社会の「有力者達」が、芸術に対するリテラシーのない人々の無理解につけこんだデマゴーグで敵対感情を煽り、「表現の自由」を犠牲に、さまざまな目先の利益を優先させました。その委縮効果はてき面で、別の自治体は早速、愛知トリエンナーレの芸術監督との仕事をキャンセルしました。今後、芸術活動が委縮する分が、彼らが今回のキャンペーンによって獲得した「戦利品」の量を可視化していきます。
憲法に「表現の自由」が保証されているのは、そのような権力層や取り巻きによる欺瞞的で恣意的な企図から、基本的人権や民主主義社会における最も根源的な価値の源泉を守るためではなかったのでしょうか。
どういった政治力学の背景があるにせよ、文化芸術を問答無用に圧殺するような圧力を振りかざして弄ぶことは、創造性という人間にとって至高の価値を生み出す基となる文化芸術の、息の根を止めかねない極めて危険な火遊びであると指摘しておきます。繰り返しますが、それは個別の作品に対する批判や議論とは全く別次元の話です。
最後に、改めて文化 Cultureと耕す Cultivateの語源を見てみましょう。Cultureの"ure" は行為、Cultivateの"ivate" は作動させることを意味します。
社会から、文化芸術の行為("ure")も、それを作動させること("ivate")も取り除いたら、つまり社会が「耕すこと」を止めてしまったら、あとに残されるのは"Cult" =カルトだけになります。
芸術に対する嘲弄、表現の自由の軽視、そして「表現の不自由展・その後」を中止に追い込んだ暴力性に対し、強い憂慮を覚え、抗議します。
横山カイン勝巳 作曲
林賢黙
이번 19년도 아이치 트리엔날레의 “표현의 부자유, 그 후“에서 평화의 소녀상의 전시가 중단된 사태에 대하여 깊은 유감을 표합니다. 표현의 부자유의 부당함을 호소하는 전시는 결국 그 부자유에 의해 억압됨으로써 완결되고 말았습니다. 이번 일로 인하여 각 개인의 예술가들이 본인의 신념을 솔직하게 투영하여 작품을 만들고 전시하는 일들에 제동이 걸릴 지도 모른다는 사실에 우려를 표합니다. 이런 의미에서 일련의 사건 이후를 방관하다시피 한 정치가들은 물론, '표현의 부자유'라는 주제를 내건 전시의 충분히 예견 가능한 위험성에도 불구하고 아무런 예방책이나 조치를 마련하지 않은 채 테러의 위협에 가벼이 전시를 중단해버린 주최측의 기획의 미비에도 깊은 유감을 표합니다.
표현의 적절성, 정치성을 논하기 이전에, 현대의 모습을, 현대가 나아가야할 모습을 표현해내는 것은 현대를 살아가는 예술가의 소명이라고 생각합니다. 그리고 자유민주주의 사회를 살아가는 시민으로서 그 표현이 공권력과 폭력에 의하여 검열되는 사태에 대해 강력히 항의합니다. 한일 관계는 날이 갈수록 악화되고 있으며, 이번 전시 중단으로 인하여 양국/국내 시민들과의 이념갈등이 더욱 심해질 수도 있다는 사실에 우려를 표합니다. 그러나 이럴 때일수록 예술가로서 우리들이 해야 할 일은 서로 반목하기 보다는, 각자의 생각을 있는 그대로 자유로이 표현하여 토론의장을 형성함으로써 양국간 나아가야 할 방향을 도출해내는 것이라고 생각합니다. 이 표현은 어떠한 폭력에 의해서도 통제되어서는 안됩니다. 음악 작품을 연주하는 사람으로서 저는 앞으로도 계속 한국에 일본의 작품을, 일본에 한국의 작품을 소개해 나갈 것입니다. 또한 작품의 국적을 불문하고 사회의 모순과 부당함을 고발하는 작품들을 주목하며, 그 작품들을 소개하는 저는 물론, 작품을 같이 감상하는 모두와 함께 이 사회가 나아가야할 방향을 생각해 나갈 것입니다.
한국과 일본은 오랜 기간 서로 간의 문화교류를 통해 국경과 민족을 초월하여 연대해왔습니다. 그리고 이 연대의 지속을 위해서도, 저는 표현의 자유가 영구히 보장되는 사회가 될 수 있기를 마음 깊이 소망합니다.
2019년 8월 16일
임현묵 (피아니스트)
今回19年度愛知トリエンナーレ 「表現の不自由展・その後」にて、「平和の少女像」の展示が中止された事態について深く残念と思います。表現の不自由の不当さを謳った展示は、その不自由によって抑圧されながら完結されてしまいました。今回の事態によって、各個人の芸術家たちが本人の信念を正直に投影して作品を作り、展示することに躊躇いを与えてしまうかもしれない事実に憂慮を表します。こういう意味で、一連の事件以後のことをほとんど傍観した政治家たちと、「表現の不自由」をテーマとして掲げた展示の十分予見できた危険性にも関わらず、何の予防策や措置を備えずテロの脅威に軽く展示を中断してしまった主催側の企画の不備にも深く遺憾を表します。
表現の適切性、政治性を論じる前に、現代の姿を、現代が進むべき姿を表現することは、現代を生きていく芸術家としての義務だと思います。そして自由民主主義を生きていく市民として、その表現が公権力と暴力により検閲される事態に対して強く抗議します。日韓関係は日増しに悪化し行き、この展示中止により両国・国内市民内の理念葛藤がより深まるかもしれない事実に憂慮を表します。しかしこういう時、芸術家として我々がすべきことがあったら、それは互いに敵対することではなく、各自の考えをありのまま表現し、討論の場を作り、両国間進むべき方向を導出することだと思います。その表現は、どんな暴力によっても統制されてはいけません。音楽作品を演奏する者として私は続けて韓国の作品を日本に、日本の作品を韓国に紹介して行くでしょう。また、作品の国籍に拘らず、社会の矛盾と理不尽を告発する作品を注目し、その作品を紹介する私は勿論、その作品を鑑賞する皆と供に、この社会が進むべき方向を考えて行きたいと思います。
日本と韓国は長年互いの文化交流を通じて国境と民族を超越し連帯してきました。そして、この連帯の持続のためにも、私は表現の自由が永続的に保障される社会になっていくことを心より願います。
2019年08月16日
林賢黙(ピアノ奏者)
斎藤俊夫
【2019年10月20日追記】
斎藤俊夫所属のウェブ批評誌『メルキュール・デザール』に、斎藤によるあいちトリエンナーレ評が寄稿されています。
「表現の不自由展・その後」を中止に追いやった人々が、展示された作品の制作者のみならず、その中止を知った我々に強いたのは沈黙と黙殺であります。表現、expressionとは「内にあるものを外に出す」という意味であり、彼ら/彼女らは我々に「表現するな、内にあるものを飲み込んで生きろ」という社会規律を既成事実として実現したという点において、この展示中止によって一つの勝利を得たのです。
芸術とは、モノとしては剣や銃よりもガソリンよりも、さらには大量の電話やFAXやメールよりもか弱いものです。しかし芸術とは、今、声を挙げることすらできない、また過去に声を挙げることもできなかった人々に代わって彼ら/彼女らの「内にある/あったものを外に出す」すなわち表現することができることにおいて強いものなのです。
私が携わっているのは音楽批評です。音楽とは完全なそれ自体としてはどこにも残ることができません。だがある時、ある場所に「存在」したという「事実」は「忘却」されない限り残ります。この忘却に抗うべくあるものが「批評」という「表現」手段だと私は信じております。
今回の「表現の不自由展・その後」の中止によって、芸術、並びにそれを表現した人間、そして表現しなければならなかった世界と歴史がそこに存在したという事実は「強いられた沈黙」「強いられた忘却」によって歪められ、消却されたのです。それは芸術に自死を強要し、人間が生きている証たる自由と良心を殺すに等しいことです。
私は、「表現という力」を持つ人間として、沈黙と黙殺を強要されている/された人々に代わって、自らの自由と良心に基づいて、「表現の不自由展・その後」を中止に追いやった人々に抗議を「表現」いたします。
齋藤俊夫(音楽批評家)
水谷晨
皆様もご周知の通り、2019年8月1日に開幕した「あいちトリエンナーレ2019」において、慰安婦像を展示する「表現の不自由展・その後」はわずか3日で中止に追い込まれました。この事態に我々音楽家がどの様に対峙していけばいいか、私の個人的経験を元に一意見を述べたいと思います。
私が従軍慰安婦の問題と直に接したのは、北海道にて行われた日韓青年の歴史会談の場でした。そこで私は、慰安婦像というものが、我が国のメディアで報道されている様な『反日』に準じた憎悪に基づくものではなく、戦争における性的搾取そのものに対する人類の普遍的反省を目指したものであると語られているのをはっきり耳にしました。それは、広島における原爆ドームの展示がそうである様に、平和を愛する日韓両国の人民の共通の願いを具現化したものとなるはずです。しかし我が国の報道は決してその真意に触れているとは思えません。それは何故か。
かつて文学者の安部公房がエッセイ『テヘランのドストエフスキー』(1986年刊『死に急ぐ鯨たち』所収)にて、空襲で爆撃されたテヘラン市街において映し出されたドストエフスキーの表紙を指し、その衝撃を描写しています。その刹那ー矛盾ーが何をあらわしているか。それは文学は戦争とは共存出来ないが、一方音楽は戦争とも、今回の様な国際紛争ともいとも簡単に共存出来てしまうという事実です。それはワーグナーと先の大戦におけるドイツのファシズムとの関係を少しでも知っていれば容易に解る事でしょう。一方、造形美術にはその弱さがない。人民に内在する様々なイデオロギーに直接訴えるだけの力があり、それは権力の思想と時に鋭く対立するものです。故に歴史上、文学、造形美術は真っ先に権力における弾圧の対象となってきたのでしょう。
一方西洋音楽の歴史では、19世紀のハンスリック、20世紀のストラヴィンスキーをはじめ、多くの作曲家、美学者が「音楽に内容は無い」と断言してきました。それもまた事実です。それが音楽という形式の最大の弱さでもあります。故に、我々音楽家はその表現形式に内在する空隙を抑圧的権力に明け渡す事に対し、一層警戒する必要がある様に感じます。それと同時に、その空隙に非言語的内容を与える事も、作曲家、音楽家なら出来るはずです。それは平和や友愛への、またそれらを包括する人類の普遍的価値観への希求でもある事でしょう。そこに今後の音楽表現における一縷の望みを託し、今回の事件への徹底的な抗議と、我が国において「戦後最大の検閲」と言わしめた今回の事件に対する私なりの総括を行い、この小論を閉じようと思います。
2019/Aug/19, 水谷晨
池田拓実
実家の徒歩圏内に都立横網町公園があり、公園には関東大震災と東京大空襲の犠牲者の遺骨を納める東京都慰霊堂が存在する。地元の子供ならば恐らく一度は訪れる場所だ。火災で溶解した鉄の塊やガラス瓶の展示が記憶に残る。毎年九月一日には、都慰霊協会が主催する秋季慰霊大法要と共に関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典が行われる。震災による混乱の中で生じた流言蜚語とメディアによる拡散が原因で、市民・警察・軍によって震災発生後数日のうちに数千人の朝鮮人が虐殺された。その犠牲者を追悼する式典である。虐殺の背景として、当時の日本人の強固な民族差別意識があることは疑いようもない。私が生まれ育った地域とは、史上稀に見る虐殺事件が起こった場所である。
ところで本事件は海外においては関東大虐殺(Kanto Massacre)と呼ばれるが、この簡便な呼称が日本語としてはほとんど流通していないように思われることも注目に値する。虐殺の記録は膨大な証言のみならず、当時の報道、公文書等にも多数残されている。虐殺事件の存在は歴史学、社会学における常識であり、災害時デマの危険性を説く際に必ず言及される事例だ。犠牲者数は数千人と言われるが、実のところ正確な人数を知ることができない。なぜなら当時の政府が事件の矮小化と隠蔽を図り、戦後から現在に至るまで、政府が事件を調査しないためである。今から十年ほど前に、それ自体が虚妄と言うべき虐殺否定論が登場すると、SNS等に拡散し、右翼団体が行政機関に圧力をかけて虐殺に関する記述を削除させたり、追悼式典のすぐ横で虐殺否定を旨とする集会を催すなどの動きが生じている。集会の目的は、当然ながら朝鮮人犠牲者追悼碑の撤去にも及ぶ。さらに現都知事は歴代知事が続けてきた追悼式典への追悼文送付を三年連続で取り止めた。無論、政治家のこうした行動は虐殺否定論者らを勢いづかせる。虐殺の否定とは流言の肯定である。それは未来の虐殺に帰結する。歴史修正とは過去現在のみならず未来の世界をも歪曲し、危険に曝す行為だ。先人の犯した罪を直視できない社会に未来はない。
「表現の不自由展・その後」の展示室閉鎖に至る経緯にも、官民一体となった圧力行動が存在する。様相は異なっても、市民が暴走し、権力が同調し、集団による暴力と権力が一体化した時に事態が最悪に向かうという構図は、関東大虐殺や虐殺否定論とも同様であった。
少女像に対する攻撃は、表現問題に偽装した明白なヘイトスピーチだった。第一の攻撃目標が像によって表象された人々であり、芸術家ではないことを確認する。なぜ彼らは執拗に攻撃を仕掛けるのか。それは彼ら自身が表現の不朽性を認め、恐れるからに他ならない。その上で、我に向けての不当な攻撃に対する正当防衛だと言うわけだ。このロジックは関東大虐殺を正当化する際にも持ち出されたものである。対話の可能性も理路もない暴力的排除が、この国では通用すると示された以上、表現を行なう者を含めて本件に関わりのない人間は一人もいない。
つまるところ、この国は差別主義と歴史修正主義を、少なくとも百年に亘って途切れることなく温存し続けている。ヘイトスピーチ等の差別煽動活動に対して有効な法規制は、今のところこの国に存在しない。所謂ヘイト本が次々に出版され、民族的対立を煽る悪意に満ちた表現が放送若しくはインターネットを通じて伝播され、公共の場での差別扇動デモが常態化している。これらが何よりの証左である。そして自らに都合の悪い歴史を隠蔽、改竄、忘却しようとする動きは至る所に存在する。歴史修正主義者の行動原理は、自らに都合の悪い歴史を示唆する事物を、公共の領域から、人々の視界から消し去ることにある。その為に持ち出すのが「一方に偏った」表現を公共の場に、あるいは公金を用いて陳列することは不当であるという理屈だ。疑う余地のない史実を偏った表現と称し、両論併記や在りもしない二項対立によって偽の論議を拵えることは、歴史修正主義者の常套手段である。差別主義と歴史修正主義に正面から対峙し声を上げなければ、表現の自由を守ることも遠からず不可能になるだろう。